あす勉強させて頂いている下北沢の劇団の中間発表の本公演に出演させて頂きます。
劇作家・竹内銃一郎さんによる『金色の魚』というファンタジー作品の中で私は17歳の女子高生(恐縮至極)の役を演じますが…その劇中で、母親に捨てられた女子高生が、その後主婦となり10年後、女性としての幸せを掴み心の成長を経て、当時の母の葛藤に思いを馳せつつ、谷川俊太郎さんの詩を朗読するというシーンがあります。
個人的にはその詩も、劇の題材【金色の魚】を描いた芸術家パウル・クレーも好きで、自作台本の表紙にも実際の詩画集の表紙を好んで使用していますが…
そんな中、あすの公演を前に飛び込んできた
日本を代表する偉大な詩人・谷川さんの訃報。
タイミングがタイミングでもありより一層寂しく感じました。
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谷川俊太郎さんの詩は心の琴線に触れる名作揃いで喪失感を抱いている方も多いと思いますが…今夜は、台本の脚本理解とそこにリンクした詩の意味を改めて読み返しながら、あすの芝居で谷川さんが遺した魂の言葉を一言一言丁寧にお伝えしたいと思いました。
我々は生き物から命をいただいて生きています。
幸せの陰には、誰かの不幸があり、喜びの陰には、だれかの涙がとけています。
主人公ヨリコがこの詩を読み上げる終盤。噛み締めるように伝えられる言葉から、『ときに物事には白黒つけられない理不尽さが生じ、それでも現実を生きていかなくてはならない宿命』について考えさせられます。
そして、時を経て幼かったヨリコがそれらを受け入れ母を赦していく心の変化。
許されない恋に翻弄されながら、
それでも切れなかった母娘の絆。
この台本を頂いて3か月弱。
私もヨリコと同じく最初は不思議な作品としか思えませんでしたが、どんどん作品に魅了され身体に馴染んできました。
さあ、いよいよあすが公演。
谷川俊太郎さんへのリスペクトや追悼の思いを込め舞台での一瞬一瞬を楽しんできたいと思います。

【黄金の魚】
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない

